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2011年3月11日午後2時46分 宮城県沖を震源とする国内観測史上最大の東日本大震災が発生し、東北地方や、私たちの住む茨城県は大きな被害を受けました。 東北地方の各所で、私たちの想像を絶する被害や窮地の中で活躍する、高校生や、先生、そして助け合う東北の人々の苦労などが、今も続いていることを私たちは忘れることはできません。
この映像は、岩手県立花北青雲高等学校情報工学科太田幸徳先生と福島県立小高工業高校電子科阿部光先生から『東北震災の悲惨さを忘れてはいけない』というそんな思いを動画として編集させていただきました。
岩手県立久慈工業高校は三陸海岸近くにあり、その恵まれた自然の中で、多くの高校生が勉強やスポーツに励んでいました。
ところが、 2011年3月11日午後2時46分 太平洋三陸沖、仙台市の東方70㎞で東北地方太平洋沖地震が発生し、最大震度7という大きな揺れに遭いました
発生から数分後どこからともなくゴー…という音が鳴り響き津波が押し寄せてきました。 なんの音だろう、、、、
すると、  いつも穏やかな海は豹変し、 見る見るうちに、白い大きな津波が 街へと押し寄せてきます
15時30分防波堤に激突し
勢いを増した巨大な津波は防波堤を乗り越え、なんと私たちの住む住宅地へと流れて行きました。
街には、たくさんの漂流物が防波堤を越え流れてきました

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この津波は私たちの家やお店など容赦なく壊しながら、市街地をどんどんと呑み込んで行きました。 これは現実の出来事なのか、すぐに理解することができませんでした
不安な時間を過ごしました。 これからどうしたらいいんだろう、、、、
日に日に、避難者は増え、
格技場も解放することになりました さらに、
避難してきた人が増え、校内は多くの避難者でいっぱいになってしまいました。
久慈工業高校の多くの生徒たちも保護者と連絡が取れない状況にあり、保護者と連絡が取れた場合のみ、帰宅するということになりました。 震災の起きた、3月11日の時点で避難住民は100人程度で、夕食や、宿泊の準備を職員全員で当たることになりました。
この恐ろしい津波は校舎の天井まで到達し、
校内の至る所に漂流物が流れ込み大きな被害を受けました。 先生たちが居た職員室や
保健室
校長室前の廊下
進路指導室
武道場などすべてが泥まみれになってしまいました
機械工場の機材はもう使えません。 授業もできません
当時の悲惨な状況 をこの用紙が物語っています 宮古工業の先生や生徒たち が町の人たちの安否を確認するため 走り回っていたことが伺えます

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現在は、 新しい実習機材を配置して授業を 再開できるようになりましたが まだまだ元通りの生活に戻るためには 多くの時間が必要です
その近辺の状況は悲惨なものでした あの恐ろしい地震から1カ月が過ぎましたが、 復旧活動の影も形もありませんでした これは沿岸部の様子です
鉄塔も津波で折れたまま、
電線も引きちぎられてしまいました。 これが野ざらしになっています 非常に危険な状態です
津波は町をのみこみ 全てを破壊してしまいました
震災前は、 この綺麗な湾岸線を動いていた電車も押し流されてしまい、ご覧のような殺風景な別世界になってしまいました
建物も壊れたままでした、
津波の被害を受けた 人々が、小高工業高校へ
そんな状況の中、 津波の被害にあった町の人たちを助けるため、 多くの高校生が寝る間を惜しんで避難住民のお手伝いをしました。

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夜の寒さを防ぐため、 多くの毛布を みんなに配り、
先生、生徒、そして地域住民が一体となり この苦境に立ち向かいました
これは、 体育館や格技館で不安な毎日を過ごす 人たちの様子です
3月中旬の体育館は想像を絶する寒さです。
そんな中、 家族で身を寄せ合って 不安な毎日を 過ごさなければなりませんでした
翌日になると多くのTV局が、 この悲惨な状況を全国各地に 伝えるため報道しにきましたが 本当の被害はどのくらい報道されたのでしょうか
そんな、悲惨な状況に更なる悪夢が襲いました 福島原発から放射能が漏れて、これが拡散してしまったのです。 3月12日第一原発から半径20㎞圏内の住民は避難することが、政府から発表され
もちろん 第一原発から16㎞地点にある小高工業高校も立ち入り禁止となりました 学校に戻りたい、、そしてみんなに会いたい
近隣の小学校でも
机やいす、荷物がぐちゃぐちゃになりました もう、子供たちの元気な声や笑顔がありません
直前まで使われていたランドセルは泥で使えなくなってしまいました。 小学一年生の子供たちが大切にしていた宝物が すべてなくなってしまいました
津波の影響で壊れた時計は、もう時を刻むことはありませんでした
その後 4月22日、政府の発表で福島第一原発から20㎞圏内への立ち入りが禁止されました。 そして

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震災から2か月が経ち 5月21日、ようやく政府の許可を得て、 小高工業高校の先生たちが学校へ 戻ることになりました
もちろん 線量計を持って、
全員、防護服を着用しないと 入れません
小高工業高等学校へ向かいます。
学校に 近づくにつれ信じられない 光景が表れてきました 壊れたままの町には
みんなと一緒に暮らしていたペットたちが放たれ、
時が止まって いるようでした
懐かしい小高工業高校の看板も地震でつぶれたままでした
ですが 桜の木は地震なんてなかったかのようにきれいに咲いていました
ようやく、学校の正門に到着し
完全武装の状態で 校内に入ることができました これはその時の写真です
九州からの電力支援チームが線量検査と除染作業のため、合流してくれました
小高工業高校の高校生は現在
小高工業高校の高校生は現在
学校は公的な機関であり、多くの先生は災害時に地域住民のサポートのため数日間家庭を離れて支援してきました。テレビなどでは報道されない事実が、まだまだ沢山あります。一部の美談だけが報道されているだけなので本当の被害はまだ続いています 人間にとって普通の生活できることが、どれだけ幸せななことなのかということを、みんなにも真剣に考えて欲しいと私は強く痛感しました
最後に震災に直面した先生の言葉を紹介したいと思います。
  • 1つ、何があっても命が大事である
  • 1つ、安全が確実に確認できるまで、絶対に生徒たちは帰さない
  • 1つ、震災の心のケアは沢山話をすることです
  • そして、あきらめないこと! どんな嫌なことがあっても桜は咲き、朝は来るんだなぁ
    これらの写真を提供してくださった先生は写真を撮っているとき何かを背負ったような気がしたそうです。 目の当たりにしている地獄のような風景、目の前に広がる惨事とその臭い、後世に伝える使命を負ってしまったと感じたそうです。
    そして、この画像を提供してくださった先生にはどうしても撮れない写真があったそうです。 それは、がれきの山を呆然と見つめている人がいたのです。そんな時、ジャーナリストのような人はこの様なときこそファインダーを向け人々に伝えるのだろうと思いますが、先生にはできなかったそうです。 ファインダーを向けられなかった自分の心境を後世に伝えようと思った瞬間だったそうです。

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